「インセプション」感想(ネタバレあり)

本記事はネタバレを含みます。
まだ映画を観ていない方はご注意を。


私はメメントダークナイトを観ていないので、その辺との関係性とかは解りません。
あくまでインセプションだけを観たときの感想・疑問です。







どこまでが

自分の記憶に基づいてストーリーの流れを図にしてみたら大体こんな感じになった。


 ラストシーン、コブが再開する子供たちが年をとっていないこと、コブのトーテムであるコマが倒れるシーンを写さずに作品が終わってしまうこと(チャートの12の直前で)などから、鑑賞者はこのハッピーエンドが現実ではないのではないか、と疑問を感じるつくりになっている。そしてこの疑問は「ではどこからが夢だったのか」という問いとセットになると思う。この問いに対しての答えは「全て現実だった」「全て夢だった」「どこかで現実から夢にシフトしてしまった(とするとどこで?)」


 「どこかで現実から夢にシフトしてしまったのだ」という立場で考えよう。それを考えるためのひとつのヒントがトーテムだ。トーテムポールとかのトーテムを表しているのだろう。Wikipediaを観ると、トーテムは「信仰の対象」なのだという。作中トーテムは、今体感しているそれが現実なのか夢なのかを確かめるためのサインとして用いられる。このトーテムが正しく機能しているかを基に判断すれば、チャートの03,05ではトーテムが正しく機能していたのだから夢ではないということになる。これ以降、サイトーと合流するまでトーテムで夢現の判断をする機会はない。


 この間のどこかですり替わってしまっていたのだとすれば、一番可能性がありそうなのは(ストーリーとして意味が見出せそうなのは)11-12の境界であろうと思う。11-12の境界で、アリアドネーはキックにより夢から醒めるが、コブはサイトーを救うために夢の世界に残る。しかし救出が上手くいかず、コブが夢の世界に取り残されてしまった、と考えると、ストーリーに齟齬はなくなる。


 作中、夢から醒める方法として夢の中で死ぬ、キックにより目覚める、自然に覚醒する、の3つが提示されている。このうち、死ぬ方法をとり、かつ薬の効果によって目覚めることが出来なかった場合、心がリンボ(虚無…適訳ではないと思うが)に落ちると説明されている。リンボに落ちるとどうなるか。感情がない人間になる、と説明されている。


 しかし、それはあくまで外部から見た状態なのであって、本人の感情は生きていて、自分の中に閉じこもって見たい夢を見ているのかもしれない。そう考えれば特に矛盾はないように思う。この場合、夢の中で死んでも現実で起きられないような場合、リンボに落ちて感情がない人間になってしまうのだ、という彼らの世界の常識そのものがインセプションなのだ、と言えなくもない。


 この場合、夢の中でコブは幸せな余生を送るが、現実では廃人になっていることになる。おそらくサイトーも同様に廃人になっているだろうから、コブはアメリカに着いた途端身柄を拘束されることになるだろう。


 もうひとつ、現実には死んでいるはずのモルが登場するシーンも夢であると考えられるが、私は現実を描いているはずのシーンでモルが登場している箇所を見つけることが出来なかったので、ここでは検討しない。


 「全て現実なのだ」というスタンスを取ると話は簡単で、ラストシーン、ブラックアウトの後でコマが倒れたのだ、ということになる。この表現は実に巧みだと思う。コブのトーテムはコマなのだが、コマが倒れること=物理法則に即していること=現実であること、という判断をするためには、コマが倒れるのを待たなければならない。現時点でコマが立っているとしても、あと数秒後にはコマが倒れてしまうかもしれない。


 「コマが(現時点で)倒れていない」ということは「現実ではない(可能性がある)」ということを示唆しているに過ぎず、だからこそ観るものに、それが夢なのか現実なのかを疑問視させる余地を残す。

 このスタンスをとる場合、アリアドネーの行いが彼を再起させるキッカケとなったわけだから、まさに彼女は神話のアリアドネーと同じ役割を作中で果たしていることになるだろう。


 「全て夢なのだ」というスタンスを取ると、トーテムのコマが倒れたからと言って現実ではない、ということになる。つまり、「コマが倒れれば現実」という仮定そのものがインセプションであるといえるだろう。作中、トーテムの概念はモルが考え出した、と語られる。コブがモルにインセプションしたように、モルもコブにインセプションしていたのだ、と考えるとこれは面白い。本作品では明晰夢を利用して、アリアドネーが物理法則を無視した街を作るシーンがあるが、物理法則を無視できるなら、物理法則を無視しない夢を作ることも可能なはずだ。そのような夢の中では、トーテムは夢を見る者の深層心理を反映して正しく倒れることだろう。


 全て夢だったとすれば、もしかするとモルは死んでさえいないのかもしれない。たとえば、コブは何らかのキッカケで夢の中の住人になってしまった。コブ自身が説明するように、モルが自身の行いで死んでしまって、その自責の念=インセプションから現実の世界に帰ってこられない。だからモルや、そのほかの仲間たちが、ロバートにインセプションを植えつけるという夢を設計して、コブに見せているのだ、という説明も出来なくはないだろう。


 ところで、全て夢だったとして、さてこれは誰の夢だったのだろうか。コブの夢だろうか?エンディングのスタッフロールは、最後、作中たびたび覚醒に用いられる音楽が流れる。これによって私たちは映画と言う虚構、夢から目覚め、映画館を出て行くわけだから、この映画は私たちの夢だった、と言うことも出来るかもしれない。明晰夢と言う言葉がある。自分で夢であると自覚しながら見ている夢だ。訓練すれば自分が思い描いたことを夢の中で実行できるようになることから、エンターテイメントへの利用が構想されているらしい。私たちは、それを映画、虚構、夢であると理解しながら主人公たちの体験を俯瞰、追体験しているわけだから、ノーラン監督は一足早く明晰夢を使ったエンターテイメントを実践してみせたとも言えるだろう。


 もうひとつ、気になったポイントがある。音楽だ。作中、主人公たちが覚醒に使う音楽は、フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフの「水に流して」なのだが、この曲の歌詞は映画の内容を想起させるものになっており、仏語がわかる人にとってはなるほど、と思える仕掛けになっている。

♪いいえ、ぜんぜん
 いいえ、私は何も後悔してない
 私に人がしたよいことも悪いことも
 何もかも、私にとってはどうでもいい
 いいえ、ぜんぜん
 いいえ、私は何も後悔していない
 私は代償を払った、清算した、忘れた
 過去なんてどうでもいい

 エディット・ピアフ 水に流して < http://nandemokou.exblog.jp/6622765/ >


 エディット・ピアフ自身も事故で最愛の恋人を失い、生きる目的を失って薬物中毒になった過去があるようだ。再起は難しいだろうと言われていた彼女の前にシャルル・デュモンが「水に流して」を携えて訪れ、衰弱しきったピアフの前でピアノ演奏する…というのは、エディット・ピアフを題材にした映画、「エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜」のワンシーンである。そういう前置きを知っている人にとっては、この夢はさらに深みを増したものに見えるだろう。


 作中、コブはアリアドネーに、「迷路を作れ」と言った。夢を見せている対象から真実を隠しやすいように、と。また、アーサーはペンローズの階段を持ち出して、目に見えるものも解釈の仕方によって別の形に見える、と表現した。この作品のエンディングも複数の解釈が出来る。そしてそのいずれもが正解なのだと思う。そうした夢を見せるスタッフはスゴ腕の設計士であり、偽装士であり、調合士なのだと言えるだろう。