七つの大罪

七つの大罪(ななつのたいざい)とは、キリスト教の用語。七つの罪源とも呼ぶ。
「罪」そのものというよりは、人間を罪に導く可能性があると(伝統的にキリスト教徒により)みなされてきた欲望や感情のことを指す。(ref 七つの大罪 - Wikipedia)

 具体的には、傲慢(greed)、嫉妬(envy)、憤怒(wrath)、怠惰(sloth)、強欲、暴食、色欲、の七要素が、七つの大罪として挙げられる。ここに列挙した順番で罪が重いとされる。傲慢が最も罪が重く、色欲が最も軽い。とはいえ、このチョイスや序列づけは6世紀後半にグレゴリウス1世が定めたもので、それ以前は八つの枢要罪と呼ばれていたようだ。以前は「嫉妬」がなく、「虚飾」と「憂鬱」があった。


 ところで、なぜこの七つが選ばれたのだろう?大罪に含まれる要素は実際に入れ替わったり、数すら変わったりしている。新約聖書ヨハネの黙示録で七つの門が登場したり、最も有力な大天使を七大天使として規定していたりするから「7」という数字に拘りたかったのかもしれないが、それにしてもなぜこの七つなのか?


 この疑問に対して、我流の解釈ではあるけれども、最近自分なりの答えが思いついたので、メモしておこう、というのが本エントリ。

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 『神曲』という叙事詩がある。ダンテ・アリギエーリというイタリアの詩人によって作られたこの詩は、地獄編・煉獄編・天国編の三部から成り、暗い森の中に迷い込んだダンテがそこで出会った古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれ、地獄・煉獄・天国と彼岸の国を遍歴して回る、というあらすじになっている。ダンテは道中で地獄や煉獄や天国がどのような構造になっているのか生きながらにして目撃することになる。


 さて、『神曲』煉獄編によれば、煉獄山は下から昇るごとに幾つかの階層に分かれている。各階層で生前の罪を清めながら登って行くのだが、この階層が7つの大罪に対応している。そしてこの階層は七つの大罪の罪の重さにも対応している。最下層から、傲慢、嫉妬、憤怒、と続き、最上層が色欲である。


 第三階層から第四階層に至る道中、ダンテがウェルギリウスに「愛」について教えられる一幕がある(煉獄編十七歌)。この辺でも読めるが、自分なりに簡単にまとめると次のようになる。


 山川草木を含めた被造物のすべては、至上善である創造主に対して惹かれると言う意味で自然の愛を、自由意思によって何かを愛するという恣意の愛を持っている。このうち恣意の愛は、愛を向ける対象や、その度合いによって罪深い行為として解釈されてしまうことがある。恣意の愛が神などの至上善に向けられたものだったり、あるいはその愛が財宝や娯楽に向けられたものであっても節度が守られていたりするならば、これは罪にはならない。逆に、恣意の愛が邪悪なものに向けられていたり、あるいは正しいものに向けた愛であっても熱意が足らなかったり、あるいは過度であったりすれば罪深いことであると解釈される。愛は徳の種にも、罪の種にもなるということだ。


 特に、思惟の愛を傾けてはならないのが災いである。災いと言っても、人は自分自身や神に対して災いが起きることを望みはしないので、この場合の災いとはもっぱら他人の不幸と言うことになる。思惟の愛が他人の災いに向けられた時、その反応の仕方は三つのパターンがある。これが、傲慢、嫉妬、憤怒である。他人を蹴落としたい、貶めたいと望むのが傲慢、他人が自分より上に上り詰めるのを恐れるのが嫉妬*1、他人によって損害を受けたとき相手にも損害をと考えるのが憤怒、とそれぞれ定義づけられる。


 このうち、傲慢と嫉妬は他人がいなければ発生しない。自分と他人との比較の中で生まれてくる感情だからだ。勝っている他人には傲慢を感じ、劣っている他人には嫉妬を感じる。尊敬語と謙譲後の構図に似ていると思う。憤怒は他人がいなくても起きるかもしれない。たとえば旱魃や飢饉で農作物がやられた農民は怒りを感じるかもしれない。しかし、そのような自然災害は神が齎す試練と解釈され、これに対して怒るということは神に怒りを向けることになるので、それは許されない。


 端的に言いかえれば、傲慢・嫉妬・憤怒の三つの要素は「どのように」愛するかを示しているように思われる。人間は何かを好きになったり、執着したりしてしまうものだ。しかし、その執着の仕方が過度であれば他人の災いを望むようになってしまう。


 では残りの四つはなんだろう?僕は残りの怠惰・強欲・大食・色欲は「何を」愛するかを示しているのだと思う。このうち怠惰、大食、色欲は人間の三大欲求に対応しているように見える。睡眠欲、食欲、性欲だ。残った強欲は、経済力や地位を過度に求めることだから、三大欲求に続く諸々の欲求に対応している。


 何を愛するのか、どのように愛するのかの組み合わせ。そのような観点でのチョイスだと考えると、大罪とされる七つの要素はそれぞれ腑に落ちるように思う。「どのように」愛するのかは人びとの心がけで注意できるものであるのに対して、三大欲求を含む「何を」愛するのかはほとんど本能的なもので避けられないから、序列として「どのように」が「何を」より重い罪として取り扱われるのも腑に落ちる。


 「何を」カテゴリ内、「どのように」カテゴリ内の序列がどうしてこうなっているのかは、あまりうまく説明できない。「どのように」カテゴリで嫉妬よりも傲慢が重い罪とされているのは、より高い地位を獲得している者に対する戒めであると同時に、立場が低いものが「高い地位に上り詰めたものは罪が重いのだ」としてガス抜きさせるギミックなのかもしれない。士農工商のような意味で。


 怠惰が「何を」カテゴリで一番重いのはちょっと理由が分からない。三大欲求への見た手であるとすれば、強欲より罪深いとされる理由が判然としない。もしかすると怠惰だけは「どのように」を兼ねているからなのかもしれない。傲慢も嫉妬も他人と自分とを過剰に比較したときに起きる感情だ。しかし、この他者と比較しようという気持ちが弱すぎると努力しようという気持ちもわいてこない。そういう意味で怠惰は罪である、ということなのかもしれない。こう解釈した場合、もしかすると三大欲求の睡眠欲だけは、「何を」から落ちているのかもしれない。女人禁制で断食をする僧でさえ、睡眠欲だけは耐えられないらしい。だから罪の対象にしない、というのは、それはそれで納得できる。そう考えるとするなら、「どのように」カテゴリが強欲、嫉妬、憤怒、怠惰、「何を」カテゴリが強欲、大食、色欲、ということになるだろう。

*1:尊敬と謙譲の関係に似ている