3月18日の議事録(1) 愛と死について
3/18頃、中学の同期と電話で話した内容についての議事録 その1。
死とは何か、死によって失われるものは何か
死によって失われるもののうち、一番ウェイトが重いのは「思考」だと思う。
記憶は記録することによって部分的にではあるが遺すことができる。
しかし、思考だけは遺すことができない。
人が死ぬと悲しいのは、その人自身と対話することはできなくなる。
文章にする、言葉にする。
その過程において思考は簡略化され、大部分の情報が欠落している。
この情報の欠落によって生まれる理解のギャップを産む。
これを埋めるのが思考であり、相手の思考を推し量る想像である。
すなわち対話である。
生者とは対話の精度を上げることができる。
相手によって表現を変え、よりギャップを発生させにくくする工夫もできる。
これらの工夫が実を結ばないことは多い。
しかしそれに期待することはできる。
愛とは何か
同上。
相手と自分の思考の摺り合わせが幸運にもうまくいった、という合意ができた瞬間。
人間が相手の思考を完全にトレースすることは不可能だ。
しかし、ふとした瞬間相手の思考が、ある程度の精度で解ることがある。
幸運な錯覚である。
なぜ愛と死の問題が人種や文化を超えて問題となるのか
愛と死の問題と書いたが、それは同一の問題だと思う。
人間は集団生活をする生き物だ。
そして、幸か不幸か、想像力という地球上の他の生物にはないと思われる能力を持っている。
集団を形成するために、相手のことを思う。
相手にとって、集団にとって良い存在であるために、自己を研鑽する。
愛とはその結果であり、思考や想像とはその手法である。*1
思考停止
ところでそのようなすり合わせを放棄する人もいる。
この思考の、思いのすり合わせの作業は、非常にコストがかかる。
万人と理解し合うことはできない。そこで、思考を放棄する。
遠い外国で内紛に巻き込まれて死んでいく人々のこと。
アルツハイマーになって家族に囲まれながら往生する祖父母のこと。
東京の道端で独り静かに死んでいく浮浪者のこと。
職場や学校で気に入らない人間のこと。
道端ですれ違う、数秒後には顔も思い出せないような人間のこと。
それらにいちいち思いを馳せることは不可能だ。
不可能な中で、敢えてそれにチャレンジする人に対して、無駄だと笑うだろうか。
不可能な中で、そのようなコストを最低限しか支払おうとしない人間に対して、無責任だと怒るだろうか。
どちらのスタンスをとることも可能である。