3月18日の議事録(2) 思考の抽象度について

考えるということは有限である

考えるという行為は、無限にできるわけではない。
時間や、感情や、その他こまごまとした言葉にできないような何かを糧に行われる行為である。
考えることができる質や量にも個人差がある。

なぜ考えるのか

思考に費やすことができるリソースは有限だ。
そこで問題になるのが「何を」考えるのか、ということだ。
この問いは、「何を」を選択するために「なぜ」それを考えるのか、ということを問うているのと同じだ。

なぜ考えるのか?
理由は、二つ挙げられると思う。
一つには、より快楽を得るためだ。
一つには、より苦痛から逃れるためだ。
つまりこれらは「欲」だ。
欲を喚起されないものを人々が考えることはあまりない。
まして、継続的に考える、ということはほとんどない。

欲求の話

欲求の話で私が最初に思い出すのが、マズローの欲求段階説だ。
人間の欲求はピラミッド型の5段階になっている、というモデルである。*1


ピラミッドの下層に向かうほど具体的な話になる。
食事、睡眠、セックス、これらは生物としての根源的な欲求である。
つまり、人間であればだれでも考えるし、逆に、これを考えない人間は放っておくと死ぬ。


『低次の欲求が充足されると、より高次の欲求へと段階的に移行する』というのがマズローの説である。
つまり、低いレイヤの問題で悩んでいるような場合、その人間はそもそも高次の抽象的な思考に思いが及ばない。

逃避としての抽象思考

ところで、私は基本的にマズローのこのような考え方に賛同しているのだけれど、例外もあると思っている。
それは低次のレイヤの問題に思い悩むあまり、それを忘れるためにより高次の問題を考え始めるパターンである。
端的に言えば逃避である。

高次の問題を考えることができるのは頭の良い人間である。
だから、そのような問題について考える自分は頭がよいのだ。
そういう逆転を起こしている人も、割といるように思う。*2

抽象的な思考をすることは「愚か」なのか?

ところで、高次の問題に挑んでいるものと、低次の問題に挑んでいるもの、どちらが「馬鹿」だろうか?
「当然低いレイヤで困っている人間のほうが馬鹿だ」と言えそうだが、実はそれは自明ではないと思う。
「バカ」という評価を下すものは常に他者だ。
そして「バカ」という評価を下すとき、

  • 自分には理解できないことをしている
  • 意味のわからないことをしている
  • 無駄なことをしている

というようなことが理由に挙げられるからだ。

低次の問題で悩んでいるうちには、彼らは高いレイヤの設問を意識することはできない。
だから彼らにとって、高次の設問に挑んでいる人々は、無駄なことをしている馬鹿に見える。
そういうときに彼らは「へえ、そんなこと考えてんだ」みたいな顔で、下から「上から目線」をするのである。
そして、彼らが何かの拍子に低いレイヤの問題で躓いた時、「普段難しいこと考えてる割に足元が疎かなんだなあ」みたいな顔で嘲り笑うのである。

抽象的な事柄について考えること、表明することは、無邪気で無慈悲な他人の攻撃に晒されやすい。
精神的なタフネスが問われるという意味でも、高次の問題について考え続けることは難しい。

*1:マズローは、のちにピラミッドの最上層のさらに上、6番目の階層の存在を示唆している

*2:自分の生活もままならないのにボランティアに精を出す、とか。