25歳のリアル
25歳のリアル
同じ名無しの世代として、思ったことを書いておきます。
自己紹介をします。私たちは25歳。ハチヨン世代です。
日経平均株価が初の1万円を越え、Macがマッキントッシュを発表し、電電公社が民営化された年。1984年。時はバブル全盛。そんな折に、私たちは生まれました。
昭和天皇が崩御した時、私たちは4歳か、5歳でした。私たちの中にはコンクリートに詰められて死んだ女子高生のニュースを覚えている者もいるかもしれません。
小学校に入学したのは1991年のことです。パパブッシュが冷戦の終結を宣言してから1年と少し。湾岸戦争が勃発した年でもあります。当時の首相は海部俊樹氏。氏が首相に就任した背景にはリクルート事件による世論の政治不信があったと聞いています。Wikipediaには、"清新なイメージで颯爽と登場した海部に寄せられた党内外の期待感は大きかった。"と書いてありますね。政治家が清新?って私などにはピンとこないのですが、そういう時代もあったのですね、と優しい気持ちになれます。
この年の2月、バブル崩壊。日本経済が音を立てて崩れ落ち、大人たちが就職氷河期で喘いでいる最中。そんな時節に私たちは小学生時代を過ごしました。
ダイアナ妃が、マザー・テレサが亡くなり、ヤオハンが、三洋証券が、北海道拓殖銀行が、山一證券が次々に破綻した1997年、中学校入学。先日情報処理学会が将棋連盟に挑戦状をたたきつけたそうですが、この年、IBMのディープ・ブルーがチェスの世界チャンピオンを破っています。
2000年、ミレニアム。高校進学。当時、高校生だった私たちを指して、「理由なき犯罪世代」「キレる17歳」という言葉が生まれました。2000年に相次いで発生した凶行の犯人が、17歳前後だったことがその理由です。つい最近も、2,3年先輩の方が秋葉原で通り魔事件を起こしていますね。キレたってしょうがないと思うんですけどね。
2003年、高校卒業。当時の首相は小泉首相。日経平均株価が7,607円88銭の大底を叩き、AppleがiPodを発売し、郵政事業庁が日本郵政公社になった年。私たちが生まれた年と対照的ですね。米英がイラク侵攻を開始したのもこの年です。
大学在学中には郵政が民営化したり、ホリエモンが逮捕されたり、まあ、色々ありました。そして今、ストレートの四大卒であれば、私たちの世代は、社会人三年目をやっているはずです。
大体、こんなところが、私たち25歳の過ごした四半世紀です。
[参考 25歳の四半世紀と景気動向]
私は一浪したので就職したのは2008年ですが、大体このあたりで団塊世代が定年退職して就職戦線が一端終結したので、私たちの世代はある意味ラッキーで比較的楽に就職することが出来ました。もう1年遅れていたら、サブプライムローンで内定取消がバカバカ発生していますから、紙一重でした。
私は自分が就職できたのは、実力だとは思っていません。ちょうど四大卒新卒カードを上手に切れたこと、ちょうどロスジェネとサブプライムの無風期間に就職できたこと。運が、タイミングが良かったから就職できたのだと思っています。
先輩の、自分より優秀だと思っていた先輩が、メンヘラになってリタイアしています。後輩の、自分より優秀だと思っていた後輩が、就職先が無くて駅前でティッシュを配っています。もちろんこれは私の体験だから一般化はできないですが、私は就職なんか、完全に運だな、と思っています。
殊更「ラッキー!」と叫ばないのは、busideaの新井さんが言うように、変なやっかみを受けたくないからというのが一つですが、もうひとつ、また状況が変わって私たち自身が職を失う、ということも普通に起こりうると思っているから、安心していられないというのが大きいように思います。
これから就職氷河期が続くとすれば、採用されるのは「デキる」奴らのはず。そんな人たちと競っていかなければいけないのだから、使えない人材が振り落とされるのは当たり前。凡人の癖に無理に頑張って、心や体を病んでしまったら、同じように会社から弾きだされてしまいます。
そして私たちが運よくしがみついている会社だっていつまで持つかわからない。自分たちが立って居る場所が大地の上なのか、それとも薄氷一枚なのか、それは足元を踏みぬくまで解らないことです。
私は田舎から東京に就職してきた口です。郷里には安い仕事しかないからです。そしてその仕事もジリジリ無くなっている。出稼ぎに来るしかなかったから、東京で働いているのです。
私は両親が健在なので、将来的には彼らを食べさせなくてはいけない。結婚するなら、出産するなら、そういうことを考えていると、必要以上にお金をかけることは、全くバカみたいに思える。
車?嫌いじゃないけど要りません。東京に住んでいるなら必要性が無いからです。
お酒?あんまり飲めません、でもみんなで食事をするのは好き。でも、twitterで話していればタダみたいなもんです。
服?仕事着以外に買って誰に見せるの?人と会えばまた金がかかる。*1
ゴルフ?なんで給料も増えないのに金かかる趣味に費やさなきゃいけねーのよ。
風俗?DMM.comで充分だろ。
そんな人生面白いか?と人は言う。面白いわけねーだろ、常識で考えてほしい。それで、面白いなんて、凡人に贅沢許されると思ってんのか。お前らが『トレンディドラマ』で見て、若者はそうするのが当然だと思っているカーライフは、持ち家は、結婚は、出産は、恋愛は、全部贅沢品だ。
それでも消費するのは、先のことを考えるアンテナが麻痺してるか、そういう心配が無いほど実力を身に付けたメリトクラット*2か、どっちかでしょ?
それに若者だって一切消費をしなくなったわけじゃない。最低限自分たちがどうしても我慢できない、自分だけの趣味を選んで後を削っているだけ。この慎ましやかな生活を、なんで贅沢三昧やってきたオッサン、オバハンに文句垂れられなきゃいけないのか、全く理解できません。
お金のために志を捨てるなとも人は言う。志ってなんだよ、国のために消費すること?残念ながら私たちは、愛国教育はダメ!って言われてきた世代なので!そういうのキモいです!やめてください!
いい加減悟ってほしいのは。日本の黄金期は一度終わったんだということ。調べたことないけど、若者で「日本安泰!パネぇ!」とか思ってる奴はそんなにいないと思います。もちろん日本いい国ですよ。イギリスとか中国とかにステイしたけど、日本がやっぱ一番住みやすい。今はね。でもこれから水準は落ちてくると思う。
そんな中で古い黄金期の方法論を無理やり引っ張り続けるのは、傷を深めるばかりなんだ、ということも悟ってほしい。これから先、次の黄金期を目指すんだという人たちと、黄金期は過ぎたんだからゆっくりやっていこうず、という人が出てくると思う。メリトクラットは前者を目指すかもしれない。でも彼らは「デキる」から、そういう人ほど日本に縛られない。凡人は前者は目指せないから、後者を目指す。後者を目指せば贅沢はしない。どっちみちジリ貧。
とっとと道をあけてくれ。メリトクラットどもが思う存分暴れられる社会、暴れて一回死んでもまたリセットできる社会、プレカリアートが努力でメリトクラットにのし上がる希望が持てる社会。そういうのがほしいんだ。畜生め。
*1:中島らものエッセイで金持ちが「(金持ちになる秘訣は)人とつきあわんことです」と言っていたのを思い出す
*2:この辺読んで→ 404 Blog Not Found:逃走を知らない闘争 - ペア書評 - 生き地獄天国/プレカリアート : http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51025164.html
3月18日の議事録(2) 思考の抽象度について
考えるということは有限である
考えるという行為は、無限にできるわけではない。
時間や、感情や、その他こまごまとした言葉にできないような何かを糧に行われる行為である。
考えることができる質や量にも個人差がある。
なぜ考えるのか
思考に費やすことができるリソースは有限だ。
そこで問題になるのが「何を」考えるのか、ということだ。
この問いは、「何を」を選択するために「なぜ」それを考えるのか、ということを問うているのと同じだ。
なぜ考えるのか?
理由は、二つ挙げられると思う。
一つには、より快楽を得るためだ。
一つには、より苦痛から逃れるためだ。
つまりこれらは「欲」だ。
欲を喚起されないものを人々が考えることはあまりない。
まして、継続的に考える、ということはほとんどない。
欲求の話
欲求の話で私が最初に思い出すのが、マズローの欲求段階説だ。
人間の欲求はピラミッド型の5段階になっている、というモデルである。*1
ピラミッドの下層に向かうほど具体的な話になる。
食事、睡眠、セックス、これらは生物としての根源的な欲求である。
つまり、人間であればだれでも考えるし、逆に、これを考えない人間は放っておくと死ぬ。
『低次の欲求が充足されると、より高次の欲求へと段階的に移行する』というのがマズローの説である。
つまり、低いレイヤの問題で悩んでいるような場合、その人間はそもそも高次の抽象的な思考に思いが及ばない。
逃避としての抽象思考
ところで、私は基本的にマズローのこのような考え方に賛同しているのだけれど、例外もあると思っている。
それは低次のレイヤの問題に思い悩むあまり、それを忘れるためにより高次の問題を考え始めるパターンである。
端的に言えば逃避である。
高次の問題を考えることができるのは頭の良い人間である。
だから、そのような問題について考える自分は頭がよいのだ。
そういう逆転を起こしている人も、割といるように思う。*2
抽象的な思考をすることは「愚か」なのか?
ところで、高次の問題に挑んでいるものと、低次の問題に挑んでいるもの、どちらが「馬鹿」だろうか?
「当然低いレイヤで困っている人間のほうが馬鹿だ」と言えそうだが、実はそれは自明ではないと思う。
「バカ」という評価を下すものは常に他者だ。
そして「バカ」という評価を下すとき、
- 自分には理解できないことをしている
- 意味のわからないことをしている
- 無駄なことをしている
というようなことが理由に挙げられるからだ。
低次の問題で悩んでいるうちには、彼らは高いレイヤの設問を意識することはできない。
だから彼らにとって、高次の設問に挑んでいる人々は、無駄なことをしている馬鹿に見える。
そういうときに彼らは「へえ、そんなこと考えてんだ」みたいな顔で、下から「上から目線」をするのである。
そして、彼らが何かの拍子に低いレイヤの問題で躓いた時、「普段難しいこと考えてる割に足元が疎かなんだなあ」みたいな顔で嘲り笑うのである。
抽象的な事柄について考えること、表明することは、無邪気で無慈悲な他人の攻撃に晒されやすい。
精神的なタフネスが問われるという意味でも、高次の問題について考え続けることは難しい。
3月18日の議事録(1) 愛と死について
3/18頃、中学の同期と電話で話した内容についての議事録 その1。
死とは何か、死によって失われるものは何か
死によって失われるもののうち、一番ウェイトが重いのは「思考」だと思う。
記憶は記録することによって部分的にではあるが遺すことができる。
しかし、思考だけは遺すことができない。
人が死ぬと悲しいのは、その人自身と対話することはできなくなる。
文章にする、言葉にする。
その過程において思考は簡略化され、大部分の情報が欠落している。
この情報の欠落によって生まれる理解のギャップを産む。
これを埋めるのが思考であり、相手の思考を推し量る想像である。
すなわち対話である。
生者とは対話の精度を上げることができる。
相手によって表現を変え、よりギャップを発生させにくくする工夫もできる。
これらの工夫が実を結ばないことは多い。
しかしそれに期待することはできる。
愛とは何か
同上。
相手と自分の思考の摺り合わせが幸運にもうまくいった、という合意ができた瞬間。
人間が相手の思考を完全にトレースすることは不可能だ。
しかし、ふとした瞬間相手の思考が、ある程度の精度で解ることがある。
幸運な錯覚である。
なぜ愛と死の問題が人種や文化を超えて問題となるのか
愛と死の問題と書いたが、それは同一の問題だと思う。
人間は集団生活をする生き物だ。
そして、幸か不幸か、想像力という地球上の他の生物にはないと思われる能力を持っている。
集団を形成するために、相手のことを思う。
相手にとって、集団にとって良い存在であるために、自己を研鑽する。
愛とはその結果であり、思考や想像とはその手法である。*1
思考停止
ところでそのようなすり合わせを放棄する人もいる。
この思考の、思いのすり合わせの作業は、非常にコストがかかる。
万人と理解し合うことはできない。そこで、思考を放棄する。
遠い外国で内紛に巻き込まれて死んでいく人々のこと。
アルツハイマーになって家族に囲まれながら往生する祖父母のこと。
東京の道端で独り静かに死んでいく浮浪者のこと。
職場や学校で気に入らない人間のこと。
道端ですれ違う、数秒後には顔も思い出せないような人間のこと。
それらにいちいち思いを馳せることは不可能だ。
不可能な中で、敢えてそれにチャレンジする人に対して、無駄だと笑うだろうか。
不可能な中で、そのようなコストを最低限しか支払おうとしない人間に対して、無責任だと怒るだろうか。
どちらのスタンスをとることも可能である。
相手の要望を定義する
お仕事関係。
相手の要望を定義するという行為について。
要件定義かくあるべき
要件定義では以下の3つの属性を備えていなくてはならない。
- 網羅性:システムの目的、目標に必要な要件が漏れ、重複なく揃っており、
- 整合性:各要件の整合性が取れており、
- 表現力:解りやすく示されている
網羅性と整合性を備える
いわゆる、MECEであること。
Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive。
漏れなく、ダブりもない状態。
そのための手法。USIT。
USITは
- 問題定義 (問題を抽象化し、根本原因を探る)
- 問題分析 AS-IS,TO-BEの比較、解決すべき問題の洗い出し
- 解決アイデア出し 下記の5つのメソッドを組み合わせる
- 要因同士の因果関係を探る(この要因とこの要因の関係は?)
- アイデア同士を組み合わせる
- 属性の次元を変える(この機能の特徴をより生かせる環境は?)
- オブジェクトの数を変える(分割したらどうなる?結合したらどうなる?)
- 機能を再配置する(タイミングを変えたらどうなる?場所を変えたらどうなる?)
の要素から成る。
インターネット中毒
物事を記憶、記録しておくコストがこんなにも安い時代はかつてなかったと思う。
インターネットにアクセスしさえすれば膨大な情報にアクセスすることができる。
また、自分のプライベートな情報を記憶し、まとめておくサービスも充実している。
ブログやTwitter、など手法も様々に揃っていて、今日も膨大な容量の情報がネット上に産まれている。
しかし、だからこそ、何を記憶しておくべきか、ということが判然としない社会になってしまった。
目の前の物事に興味を持ち、深く追求し、理解する前に、新たな「記憶すべきこと」が目の前に現れ、結局何も得ることができない、というのはよくある話だ。
ニュースサイト、ホッテントリ、Twitterログ、たくさんの情報が私たちがそれに目を通すように語りかけてくる。
すべての情報はそれぞれ魅力的で、しかも「他の人が見ている」。
他の人が知っているのに自分だけが知らない、ということは他人より劣っているということになる。
それを避けるためにも、出来る限り情報に目を通さなくてはならない。
と、いうような、暗黙の強制力がインターネットには働いているように思う。
それはすべて自分の中から出てきた欲求なのだが、だからこそ辞めることができない。
ウェブから離れてしまうことによって自分が萎んでしまう苦痛。
ウェブに接続し続けることによって自己を肥大し続けられる快楽。
そのために支払わなければならない代償はあまりにも大きい。
ソーシャルネットワークとネットストーキング
ソーシャルネットワークにおいては他人と常に繋がっていたい各人を突き動かす。
そこで、あなたに接続されたノードの中に悪意ある人が紛れ込んで、あなたの情報を収集しようとしたとしよう。彼の言葉が自分に届かないように設定することは昨今のサービスでは容易だ。だが、彼の視線まですべて塞いでしまうことは難しい。
仮にあなたが彼をネットワークから切り離したとしても、彼は別のアカウントであなたを観察することができる。悪意を込めてかかわってこない限り、スタンドアローンの一員として、彼はあなたを監視し続けるだろう。
仮にあなた自身がそのソーシャルネットで利用していたアバターを切り捨て、別のアバターでソーシャルネットに再接続したとしよう。しかし彼は、旧来のあなたの人間関係そのものを監視できる。あなたがそのネットワークに再接続しようとすると、似た人間関係のアバターを観察することで、結局新しいアバターを突きとめるができてしまう。
自分の友達が誰を友達と感じているかを可視化する仕組みは、ソーシャルネットにおいて人間関係を広げていくための一つの要になっている。しかし、このソーシャルネットの長所が、悪意あるものに遭遇したときのプレイヤーの行動を、やや制限してしまうこともある。